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活躍する先輩たち

志賀廣太郎さんインタビュー


能と現代演劇
大学で学んだ能と俳優として演技をすること
聞き手:高橋宏幸
志賀廣太郎[俳優/演劇専攻2期]
1978年より本学演劇専攻非常勤講師。1990年より劇団青年団にて劇団員として活躍。ドラマ「陸王」「三匹のおっさん」他、映画、CM等多数出演。


高橋 :今日は、志賀廣太郎さんをお招きして、そのキャリアを伺うなかで俳優について、もしくは演じること、志賀さんの演劇観にいたるまで話が聞けたらと思っています。志賀さんは俳優として舞台、テレビドラマ、映画など幅広く活動していらっしゃいます。平田オリザさんの青年団という劇団に所属して、その作品に出るだけでなく、先日も桐朋学園の演劇専攻科50期生の修了公演として『どんどこどん』という作品の演出もなされたように、演出もしている。そして、演劇専攻科の卒業生であり、その後助手として勤務して、教員としてはおよそ40年以上にわたって、ずっと学生たちを教えていただきました。

まずは、桐朋学園で演劇を学んだことからお話を伺いたいのですが、志賀さんは演劇科の何期生として入学されたのでしょうか?

桐朋学園、演劇科の時代

志賀 :2期になります。1967年、昭和42年になります。だから、ひょっとしたら今日ここに集まっている学生のみなさんのご両親が生まれる前かもしれないですね。
高橋 :その当時は、桐朋学園は大学でありながらも、同時に俳優座の俳優養成所としても機能していたと思います。演劇科を設立したのは、千田是也、田中千禾夫、安部公房といった日本の近代、現代演劇を形作った方々であり、その人たちが実際に教えていらっしゃった。ふりかえって印象に残っている授業などありますか?
志賀 :俳優座の養成所の代わりというか、千田是也先生、田中千禾夫先生が俳優教育を大学でしようとして、具体的にどうしようかというときに間に入ってとりもったのが、安部公房先生でした。安部さんの娘さんがこの桐朋学園の学生で、桐朋学園は音楽科を作った実績もある。それで桐朋学園の生江義男先生に安部さんが相談したところ、やりましょうとなった。

だから講師陣は、このお三方もいましたが、詩人であり作家、翻訳家の長谷川四郎先生、まだ学習院大学で教えていたドイツ文学の岩淵達治先生、フランスのルコック・システムの学校で学んで帰ってきた大橋也寸先生、青年座の演出部にいて評論家でもある石澤秀二先生。それらを俳優座で教えていた永曽信夫先生が中心になって作った。座学でも、今ではへぇーって思われるような人たちがたくさん教えていた。心理学の南博先生、言語学、国語学で方言の専門であった『新明解国語辞典』の編纂をした柴田武先生、東京外国語大学の音声学が専門であった吉沢典男先生、また俳優座養成所の時代から音声学、声について教えていらした林義雄先生もいました。林先生は先日亡くなった作曲家の林光さんのお父さんですね。先日、専攻科の修了公演として上演した『どんどこどん』の音楽を担当していただいた萩京子さんは、林光さんと一緒にオペラシアターこんにゃく座を作られた方です。

実技では、やはり俳優座の養成所から引き継いでいらっしゃった方が多かった。洋舞の真木竜子先生。真木さんは千田是也先生の兄であり、日本のモダンダンスをつくった一人である伊藤道郎さんのお弟子さんというつながりでした。当時は、まだクラシックなものが主で、いまのようなジャスダンスやヒップホップができる前の話です。一年生でクラシック・バレエをして、二年生でモダンダンスをする時代でした。声楽は畑中更予先生、この方もたいへん著名なかたでした。歌唱もほとんどクラシックなものでした。
高橋 :それぞれのジャンルの第一線で時代を築いた方々が教えられていた。そのような授業がならぶなかで、学生たちはやはり意欲を出してまじめに受けていたんですか?
志賀 :授業を受けてはいたけど、まじめではなかったですね(笑)。ひどいやつらばっかりでね、ほんとに。先ほど言った学長の生江先生の息子さんが桐朋の男子校出身で、同級生が演劇科に入っていた。その関係もあって、生江先生の家に半分下宿してたような奴もいたんじゃないかな。僕も遊びに行きましたけど、生江先生の家から学校に来て、生江先生の家に帰ってごはんを食べさせてもらっていた。当時、1960年代後半から70年代の学生運動の頃だから、学生はデモとかに行くわけですよ。生江先生も宮城弁で「おまえら死ぬんじゃないぞ」と行って送り出して、彼らが帰ってくると「よう帰ってきた」、と。

学生たちは、権力に反対すると言っているわりに、なんで学長という権力の家に帰っていくのかわからなかった(笑)。どこかいいかげんと言えばいいかげんですが、若かったからそういうことはあまり考えていなかったかもしれない。ただ、先生たちとはけっこう議論はしましたね。わからないことはわからないままにしておかない。聞くということがまず大事だということが基本にあった。それで授業がだいぶん中断しました。聞いて、答えて、というやりあった時間が長かった。

それで、ぼくは能の授業が印象に残っています。専攻科に入って、一年生のとき(大学3年生に該当)に能の授業があった。いまの観世銕之丞さんの父である、当時の観世静夫さん(八世観世銕之丞)が先生で、そこから学びました。その頃は、観世三兄弟として、観世寿夫、榮夫、静夫さんが名を成していました。観世榮夫さんは観世流ですが、喜多流の名手である(十四世)喜多六平太さんに傾倒して(喜多流・後藤得三の)芸養子になって観世流を離れたという変わった人でした。それから兄である観世寿夫さんも、本職の能では世阿弥の再来とも言われるぐらいすごい方でしたが、現代演劇とも交流があった。早稲田小劇場の鈴木忠志さんとも仕事をして、ジャン・ルイ=バローとかヨーロッパの演劇人とも親しくつきあった。静夫さんは一番年下であったけれど、授業は本当にすごいと思った。それで、ぼくは大学を卒業しても能を習った。

古典芸能というのは、先生から口づたえで教えられることが多いですね。三味線なども、見て覚えていくとか、狂言などもそうでしょうが、謡とか先生に付いて学ぶ。もちろん、そうなのですが、謡を譜にした謡本もある。観世先生は、それを、どうしてここはここまで高くあげるのか、理屈で教えてくれた。たとえば、言葉にしても、八拍のリズムのなかに裏表、裏表を5と7の12文字で収めていくことが定型なのですが、それがどういうふうに合理的におさまっていくのか。最初に謡本を見るとわからないかもしれないですが、詞章のよこに、ヤとか、ヤヲとか、ヤヲハとか書いてあるけど、それによって最初の言葉が何拍目に出るかが決まっている。そういった理論を教えてくださった。

あとは演劇全般にかかわることとして、能を教えてもらうと同時に「演劇とはなにか?」ということを、直接的には仰らなくとも教える態度として、授業のなかで感じることがたくさんあった。たとえば、頭のてっぺんからつま先まで、自分の意識をもってコントロールするということ。細部にわたってまで神経をちゃんと研ぎすませていないといけない。人間の身体はそれぞれ癖があるけれど、癖をそのままではなく、癖を自覚した上で基本というものを見なさいと言われた。

よくおっしゃっていたのが、古典芸能というのは博物館に入れておこうと思えば、収まってしまう。ただ、室町時代にできたものでございます、と能や狂言をやっているわけではなくて、やはりやるのは能役者なのだ、と。能役者はいまのこの時代に生きているのだから、いまこの時代がどういうものなのかをちゃんとしっかり見ておかないといけないと言われた。この時代において、どういうことを思い、どういう立場をもっているのか。そういうことがなければ、能だって歌舞伎だって、そんなものは博物館でやればいい、とおっしゃっていた。

冥の会とアンダーグラウンド演劇

志賀 :観世三兄弟と野村家の狂言、それから現代演劇からは主に青年座の俳優たち、関弘子さんや森塚敏さんたちが参加して「冥の会」というのをつくった。現代劇と古典の融合、今の言葉で言えばコラボレーションかもしれない。取りあげられた作品は、ギリシャ悲劇やベケット、泉鏡花の『天守物語』などで、演出を観世榮夫さんなどがしていた。ただ、観世寿夫さんは若くして53歳で亡くなって、その後榮夫さんは観世流にもどった。名前を継ぐということでは三男の静夫さんが継いで、いま静夫さんの息子さんが銕之丞を継いでいる。観世の分家にあたるのでしょうが、青山にある銕仙会です。いまは異業種で一緒になって何かやることは当たり前になってきていますが、演劇においては先駆け的なものがあった。

また、ぼくが大学に入った67年前後は、唐十郎、寺山修司、鈴木忠志など、そういう方たちの劇団、状況劇場、早稲田小劇場、天井桟敷が旗揚げしたり、活発に活動しはじめた頃だった。ぼくは寺山さんの天井桟敷の旗揚げ公演を従兄弟にさそわれて見に行きました。ぼくにとってみれば、大学のなかでは新劇というものを学んでいたけれど、外に出てみればそれだけじゃない。そういう時期に学生であったことは、たいへん幸せだったと思っています。状況劇場であれ、天井桟敷であれ、組織としてはまだ大きくはないけれども、お客さんを集めていた。蜷川幸雄さんも、ちょっと後で出てきた。彼らも勉強として新劇を学んだけれど、それだけだと自分がやりたい表現にはつながらない、だから自分たちの模索していたものが、ああいう演劇の形となってあらわれた。

状況劇場の『二都物語』では、上野の不忍池のほとりにテントを建てて公演していました。そして池のなかから人がばぁっーとあらわれてくる。竹筒の節を抜いて池の中で呼吸して待っていたらしい(笑)。当時、状況劇場の唐十郎さんの奥さんは在日の李麗仙さんだったということもあるかもしれませんが、ゲリラ的に韓国で芝居をするとか、寺山さんも劇場の枠にとらわれず、街に出て行って、市街劇として同時多発的な演劇をやった。

鈴木忠志さんは、ゲリラという感じではなかったけれど、東京の本拠地から富山県の利賀村に移った。移ったときは過疎の村ですから大変だったみたいで、合掌造りの家を劇場にして、朝日新聞の記事になっていた。村の方ではよくわからない芝居で人が呼べるわけないと思っていて、どこのだれともわからない、見たこともない芝居をこんなところまで観に来る人がいるのか。鈴木さんは村の一軒一軒回って説明したらしい。そして、いざ蓋を開けてみれば人が来た。1年目に成果が出て、2年目ぐらいから村をあげて協力してくれた。

ぼくがはじめて利賀村に舞台を観に行ったのは、78年か79年ぐらいだったでしょうか。まだ電話が直通ではなかったと思う。宿泊の予約の電話をしても、よく聞きとれず遠かった(笑)。それらが実って、1982年の世界演劇祭につながる。そういう努力というか、道を切り開くことを実際に目の当たりにした感じがした。こんなことを言ってはいけないかもしれないですが、それらに対して、新劇側の新たなアプローチはちょっと弱かったですね。
高橋 :いま話されたことは、振り返れば現代演劇史であり、ひとつの時代そのものですね。実験的な演劇といっても、冥の会とアンダーグラウンド演劇という異なる形としても、新しい演劇を作ろうと試みた、二つの軸があったように映ります。アンダーグラウンド演劇の肉体や身体は、その後もいろいろ議論されますが、観世寿夫さんなどの能や狂言と現代演劇の身体という流れは、たとえば野村萬斎さんが現代演劇を上演することなど、別の形で引き継がれているのかもしれない。当時、桐朋学園の演劇科は新劇のイメージしかないと思っていたのですが、学生たちはアンダーグラウンド演劇も観ていたんですね。
志賀 :観には行っていました。それで面白いとも思っていましたが、卒業後の割合としては新劇の劇団を受ける人が多かった。学校の成り立ちとして、俳優座の受験資格はこの大学で4年間学ばないといけなかったというのもある。だから、ほとんどの人は俳優座、文学座、民藝の養成所の受験にいきました。ただ同期で青年座にいった人は、冥の会とのかかわりがあったからだし、4期ぐらいに状況劇場にいった人もいた。でも、10期ぐらいまでは、たしかに新劇系の劇団が多かった。今でもそうかもしれませんが。
高橋 :でも、学生たちはみんな大学の外で起こっている演劇の情報も気にして、自分たちなりに将来というか、自分たちの演劇の未来を描こうとしていたんですね。当時の学生の雰囲気と現在の学生の雰囲気は違いますか。
志賀 :そうですね。自分たちで学んだことを肉付けするというか、自分たちなりに考えていたと思いますね。当時と今の違いは、まず大学に入ってくる前の教育自体が変わってきているように思う。どういう教育がなされているのか、実際に見ているわけではないのですが、演劇科の学生を見ていると、まだましというか、それぞれの個がまだちゃんとある。個として生きて、それが集団を作っているという基本的なこと。外に目を向けると、集団というものの一つのパーツにしか見えないときがある。右向け右と言えば、右をみんなが向く。そこで左を向く子がいてもいいと思うけど、それをやっちゃいけないとか、やると変に見られるとか、あらかじめ予防線が張られている。むしろ、個というものを18歳以上の学校に入る前には、もう少し確立させていてもいいような気がする。
高橋 :大学に入学するということ自体が、本当は自分で自分の道を切り開くことですね。志賀さんがその後ドイツに留学したことにもつながりますか。
志賀 :ドイツに行ったことにはいくつか理由はあります。その一つに、批判ではないけれど、千田先生の演出を受けていたときのことや、もしくは翻訳劇の上演が多かったということがある。たとえば、いまここで高橋さんと話していて、突然ぼくが「それでね。高橋くん」と言って、身を乗り出してオーバーな動きをふつうはしないですよね(実際に演技をしてみせる)。少なくとも日常の場合はそうですね。

ところが芝居は、妙な仕草をやったりする。日舞や狂言や能などのように様式性のあるものなら、それに則っている。では、現代劇の場合はなんなのか。それが引っかかった。唐十郎や鈴木忠志、寺山修司の場合、それは自分たちの一つのスタイルとしてある。それは、なにをしていようとスタイルだから、ぱっとすんなり見ることができる。リアルというものを追求しようとしたら、どういうリアルがあるのか。リアルとリアリティは違うとか、色々な言い方があるけれど、では外国ではどうなっているのか。たとえば、ブレヒトを生んだドイツでは、どういう芝居があるのか。本当に日本で見るような翻訳劇の演技というか、リアルな演技をしているのか。実際に見てみないとわからない、というのが頭をもたげてきた。

もちろん、演劇の解釈にかんしては別です。それらはいろいろあるけれど、現代演劇の演技で、たとえばペーター・ハントケやハロルド・ピンターの作品など見たけれど、違和感なく実にリアルにきちんと伝わってきた。だから、アメリカやフランス、ドイツの人々とか、色々あるけれど、それぞれの日常で、いろいろな場所で根付いている演技というものがある。面白いとかつまらないは別として、見ていておかしいということはなかった。

それを日本におきかえた場合、新派や新国劇とも違うし、なんだか新劇とも違うと思った。模索するなかで考えていたことをやっていたのが、平田オリザだった。留学した時から時代は飛びますが、これだ、と思った。それまでも桐朋の授業で、日常の感覚を大事に細かいことを教えていたつもりだった。でもそれだけで一つの作品になるとか、そこまでは考えていなかった。

だから、翻訳劇をやりたくないということではないですが、ドイツに行って、逆に翻訳劇よりも日本の演劇というか、人の動きや呼吸、しぐさ、そこをもっと大事にした方がいいと思った。

平田オリザの青年団へ

高橋 :当時、志賀さんが平田オリザさんの青年団にはじめて出演したとき、志賀さんはもう中年というか、いい年齢でしたよね。平田さんはそのときまだ若手でしょう。
志賀 :ぼくは30代のときに舞台に出たのは数えるほどしかなくて。もちろん、俳優になろうと思って大学に入学したけど、途中から教育というか教える方に興味が移った。
高橋 :今なら年齢を重ねてから、俳優になろうと挑戦しようとする例もあるでしょうが、当時40才ぐらいで、若手の劇団に出ようとする人はあまりいなかったのではないですか。小劇場=(イコール)若手の演劇の時代ですよね。
志賀 :たしかに、そういう人はまずいなかった。ぼくも東山千栄子さんは35歳で築地小劇場にいったということを心の支えにした(笑)。

ただ、オリザの舞台を実際に観たときに、これだと思った。桐朋の学生にやってもらいたい芝居だなと思った。それで舞台が終わったあと、アゴラ劇場の客席で飲んだときに、オリザに桐朋の劇上演実習のテキストに使っていいかと聞いたら、どうぞどうぞと言われた。それで飲んでるうちに、テキストに使っていいとは言われたけれど、自分で体験していないのを上演するというのはどうかと思って、酔った勢いで次の公演にでるって言っちゃった。そうしたら、チラシの裏に次の公演の説明会があって、これに来てくださいって言われた。二週間ぐらいあいだがあいてたかな。出るって言ったけど、みんなまだ20代だし、いいのかなと思った。ぼくにとってというよりも、向こうにとっていいのかなと思った。そんな集団のなかに入っていけるのか、ずーと考えました。煩悶したというか。結局、当日になって、雨が降ってたけど行って、エレベーターで上がってくださいと貼り紙が書いてあって、最後にエレベーターのボタンを押すときもやっぱり考えましたね。そして、よし、行こうと思った。

あの当時は、まだ来れば拒まずみたいなこともあって、出ることができた。それでオリザに、ぼくは40才越えているけど、舞台のバランス崩れませんかと聞いたら、大丈夫ですって二つ返事で軽く言いやがった(笑)。それで、自分で実際に舞台をやってみて、これはすごい緻密な作り方だと思った。

青年団ってひどい劇団で、稽古のときに出ていない人が、稽古場の片隅で寝転がっていたりする。しかし、そういうなかでも、やることはものすごく細かい。芝居で自分が動いたりするためのきっかけが、ものすごい数になったのを覚えている。舞台で俳優たちが同時多発的に会話をするから、自分が話し始めるきっかけは、自分のいるグループではなく、向こうで話されていることを聞いてきっかけにする。だれか来た時に目がどういうふうにいくとか。演出のオリザは、ほとんど時間のことしか言わない。たとえば5秒してから出てくださいとか言う。5秒ならまだいいですけれど、0.5秒でとか平気で言う。おれはロボットか、と思った(笑)。

だから、ロボット演劇の現場は大変だろうけど緻密なプログラミングがあるんじゃないですか。ただ、それをすべて忘れて、さらっとできたときの快感はすごい。段取りとかきっかけとかを一つ一つ考えずに、舞台が成立したとき、身体がその登場人物として動いたときは、すごいものがある。そういうときはぼくだけでなく、周りもあわせて一つの空間を作っている。

当時はまだ体制が整っていなかったから、稽古が二ヶ月ぐらいあった。三週間前ぐらいから通し稽古があって、修正して、通し稽古があって、修正してを繰り返して、劇場入りまでなんども通し稽古をした。でも、休憩はやたら長いですね。休憩の無駄話が多いし、こっちは最初いらいらしていた。今ではそっちの方になれましたけど(笑)。それで、言いよどんだり、つっかえたり、違うことをいったら、そこで稽古をストップして休憩してしまう。いまは、オリザも大分いそがしくなって自主稽古が多くなったけど、そのやり方自体も大変細かいから、クオリティをきちんと保っていると思う。

舞台の演技とドラマの演技

高橋 :志賀さんはそのあとテレビドラマや映画などにも出られるようになりますよね。青年団で行なっている演技と違いはありますか?
志賀 :基本的には変えていないです。ただ、普段はしないことでも、テレビだからということで、要求されたりする。ちょっとオーバーな芝居をやることとか、それはそれで割り切るしかないと思っている。

ただ、ぼくに最初に目をつけてくれた方は、コマーシャル畑の方です。白山羊の会という劇団をつくられていて、岸田戯曲賞もとられている山内ケンジさんです。この方の妹さんもプロデュース公演とか舞台のキャスティングをしていて、あちこちの舞台を観て、小劇場の俳優とかをキャスティングしていた。僕もその一人なんですね。それが、映像の方に出るきっかけとなった。山内さんも芝居好きでよく見ている。青年団も好きみたいで、実際に白山羊の会の舞台を観に行くと、青年団以上にボソボソ喋っていますね。声が聞き取れないぐらい(笑)。でも面白い。そこからドラマとかプロデューサーとかにつながっていった。

だから、お芝居にかんしては、基本的には変えていないです。ただ、どうしたってテレビの場合は観ている人が、ずっと、じーっと見ているわけではないから、どこかで目を引くような演技、仕掛けが必要なんだろうと思う。だから、逆にこういう演技は舞台に持ち込まないと思ってやっている。
高橋 :いま志賀さんは映像の仕事などを含めていろいろ忙しいと思うのですが、それでも青年団の舞台にはかなり出られていますよね。『日本文学盛衰史』にも出ていらしたし、スケジュール調整などもたいへんかと思いますが。
志賀 :芝居のほうが、スケジュールがはやく決まるから。だから映像の仕事が来ても、その間、この時間は舞台がありますけどいいですか、と言える。レギュラーで行かない突発的な仕事は、ある程度調整してもらったりもしますけど。オリザはオリザで、そういうところ……、平気なのかな。たとえば、この日はこうとか、何時までしかいられないとかあっても、わりとなんとかなる。つまり、全員を稽古場に拘束しないんですよ。それぞれの場面で稽古をするので、そこに出ている人以外は来なくてもいい。それぞれ他の仕事とかもあるし。もちろん、稽古に行くことができない、ダメな日は稽古が始まる前にきちんと言うけれど、それに合わせて稽古日程を組んでくれる。それは、よほど自分がやることに自信がないとできないと思う。それと俳優たちのことを信頼してくれている。そういうこともあると思う。
高橋 :志賀さんの青年団でのキャリアもずいぶん長くなりましたね。創立メンバーもいらっしゃるでしょうが、志賀さんももう古参のメンバーになっているのではないですか。それでも青年団を離れずにやっているのは、そこで演技をすることが合っているということもあるでしょうが、俳優としてさらになにか求めるものがあるのですか。
志賀 :青年団では、およそ30年近くになりますね。それでもまだやっているのは、演技の緻密さなどを考えること、それこそ観世静夫先生が言っていたようなことは、まだまだできていないと思っているからです。日常的な、本当に何が起こっているのかわからないような下世話なシーンでも、やっぱり演じることは、そこにいる、ということですから。そこに居ずまいというか、居方(いかた)が、演技につながっている。

たとえば、悲しいシーンでみんながみんな泣くかといえば、そうじゃない。悲しい目に逢うと笑ってしまう人もいる。そういう個性とか多様性が、役のなかにあるはずだから、それをどこまでどのようにするのか。もちろん、芝居の演目によっても、どれだけの登場人物がいるかでも違う。

基本的にぼくは役作りをあまり考えないようにしている。私がそこにどうやっていられるのか、ということを基本に考えている。この姿勢は、舞台だけでなく、テレビや映画でもそうですね。
高橋 :現代演劇の演技における緻密さという論点は、面白いものですね。能など古典芸能は様式であり、形式としての緻密さは自ずから求められるでしょうけど、現代演劇のなかではどうなるのか。アンダーグラウンド演劇は、「特権的肉体」のように、勢いや力強さなどの身体性で勝負するイメージですよね。もちろん、スズキ・メソッドのようにメソッド化することもありますが。ただ、1980年代後半から青年団など「静かな演劇」が出てきて、演劇に緻密さ、リアルさを再び求める傾向があった。志賀さんは、能を大学で習ったことによって、古典芸能と現代演劇の演技との重なる地平をそこに求めたのかな、と思ったのですが、いかがでしょうか。

能と平田オリザ

志賀 :そうなんですよ。いま言われて思い出したが、専攻科2年のときのことです。そのときは千田是也、田中千禾夫、安部公房の3人の先生たちがゼミをもっていた。学生はそのなかから、二つのゼミを選択する。一つのゼミのなかにも、他に何人かの先生がいて教えていた。たとえば千田先生のところには岩淵達治先生がいて、観世榮夫さんもときどき来ていた。安部公房先生のところには清水邦夫さんがいた。田中千禾夫先生は石澤秀二先生がいた。

それで、能舞台を使った舞台を作ろうということになった。石澤先生が能の『隅田川』を観世静夫さんと一緒になってつくった。芥川龍之介の『藪の中』を山内泰雄さん、田中千禾夫先生が国木田独歩の『武蔵野』を劇にした。講堂に所作台を敷き詰めてやった。当時、石澤さんは劇評も書いていて、コラムでそれを紹介してくれた。それですごい観客が来た。

そのとき、ぼくは『隅田川』をやった。川のほとりに渡し守がいて、そこに狂った女がやってくる。自分の子供が人攫いにさらわれて探していると言う。渡っている間に渡し守が向こう岸に集まっている人たちについて語り出す。要するに、女が探していた息子は、一年前にそこまで来たけれど病気で亡くなってしまった。いまわのきわに、自分の出自を話し、「この道の傍らに築き籠めて、しるしに柳を植えて賜われ」といった。それを聞いた女が、それが我が子だということを悟る。それを現代的というか、新しいアプローチでつくった。たしか、能の研究者で評論家の増田正造さんが劇評も書いた。そのときまで、もちろん観世静夫先生の授業には出ていたけれど、それ以上に能、あるいは観世静夫という人に傾倒した。

それで、終わって合評会というか、みんなで話をしているときに、生意気にも、自分は自分の能を作りたいと言ってしまったんですね。静夫先生は、にかーっと笑って聞いてましたけどね。ただ、自分の頭のなかで固まった具体的なものはなかった。それがいつしか青年団に入って、舞台に出て、もしかして、こういうことをおれは望んでいたのではないか。もしかしたら、若き日のわたしは、こういうことを言いたかったのかもしれないな、と思った。
高橋 :能の経験と平田オリザの舞台がつながるというのはおもしろいですね。平田さんの舞台を、能を通して考えることはあまり聞いたことがない。それが志賀廣太郎という俳優の身体を媒介にして、能の形式による緻密さと現代演劇の形式性ともいえる緻密さでつながると言ったらいいでしょうか。一時期までは、ギリシャ悲劇と能、シェイクスピアと能、ベケットと能とか、冥の会の影響もあるでしょうし、三島由紀夫の『近代能楽集』や、現在でも「現代能楽集」として、古典と現代というモチーフで舞台を作っている作品はありますが、平田オリザの舞台と能という見方はあまりないですね。

能の発表会での経験

志賀 :その舞台以外の観世先生の能の授業では、ただ能を教えられて学んでいるだけではダメだと、やっぱり発表がないといけないとなった。それで、2月ぐらいだったかな。青山の銕仙会で発表した。演目は『清経』。平家の武将で源氏と闘って壇ノ浦で入水する。その遺髪を家来が奥方のところにもっていく。なぜ死んだのかを嘆いていると、清経の亡霊があらわれて、自分の最後を語る。

装束も面も、全部きちんと着けて、謡は学生だけど、鼓、大鼓・笛などは本職のかたをお呼びした。全体の構成のなかで狂言や仕舞、小舞は大学で学んでいるから学生がやった。ダブル・キャストだったから、昼と夜で一回のみの公演でした。観世先生が最初にテープにすべてを吹き込んでくれた。大鼓もだし、たとえば笛はひー、ひゃー、ひーひょろりーとか口でおっしゃって、謡から台詞まで、全部吹き込んでくれた。それで、順々に稽古して、そのなかで型というものの大事さを教わった。

ぼくは癖として、能の基本のカマエのなかで手に癖がでる。それをずいぶん注意された。それが要するに細部にわたって、身体の隅々まで意識を張りめぐらせるということでしょう。当時は12月ぐらいに俳優座での大学の修了公演が終わったので、あとは毎日能の稽古をしていました。家に帰っても、吹き込んでくれたテープで自習する。もちろん、舞台の広さの実寸は取れないですけど、椅子とかをどけて頭のなかでシュミレーションする。歩数はぜんぶ決まっているから、一歩二歩とやっていく。

そのときはシテだったので清経をやった。名乗りから台詞を言うパートをこなしていく。最初は「聖人に夢無し。誰あつて現と見る~」というわけです。それで、どういう自主稽古をしたかというと、クセのところは舞が中心で地謡がうたっている。そこで吹き込まれたテープは流しておくのですが、ボリュームをゼロにする。自分のパートになってクセを舞って、それから台詞を言って、舞が終わったときに、急いでボリュームをあげる。そうやって、クセの時間が、地謡の時間と完璧に合っているかどうかを計った。そこまでできるように、何回も練習を繰り返しましたね。

能役者は三間四方の舞台の感覚が、体のなかに入っている。面をつけていても、面によっては外は見えないことがある。まったく見えないなかで、舞わなくてはいけないこともある。それに比べたら、その程度の努力はするべきだろうと思った。もちろん、本職の能役者は3歳ぐらいからやっているから、体で身についているでしょうけど、こちらは20歳すぎてやっているから、それぐらいの努力をしないと追いつかない。いや、追っつくわけはないけれど、せめてそれぐらいはしないといかんだろうと思った。

いざ、本番当日になると何枚も重ねられた装束を着て、鏡の間で座っている。囃子方の調べが始まり、地謡が始まっていく。それで自分の出番が近づくと、立ち上がって幕の前に行く。そして、こちらから声を掛けて揚幕を開けてもらう。そして橋掛りをずっと歩いて、自分が立つべき場所に言って、「聖人に~」と詞章を言う。

一度だけですが、実際の舞台での稽古もありました。どこの囃子のきっかけで入るとか、ここで大きく大鼓の音が来るとか、すべてタイミングがあって、声を出すところなども決まっている。細かい話になるからあまり言わないですが、拍が合うところと合わないところがあって、八拍のところに12文字を当てはめるのが「拍子合」で、合う場合にもいろいろ規則があって、拍子に合わない「拍子不合」のところとか、「強吟、弱吟」とかいろいろある。

そうやって待っている間でも、もちろんいろいろと着込んでいるわけですよ。かつらをかぶって、面もつけて、装束も何枚重ねているのか、その緊張たるやなかった。ところが舞台に出ると、自分が素っ裸になった気になった。一人で放り出された気がした。その緊張たるや、本当になかった。

ぼくはあまり緊張しないほうだけど、その時と、あとはケラリーノ・サンドロヴィッチの舞台で場当たりを途中でやめて本番になったときかな。この時も逃げ出したくなった(笑)。これは冗談ですけど。

それで、能の舞台はすべてが決まっている。ここで顔を左から右へ向けてとか、ここで足を踏むのがつーとんつーとん、つーととんのリズムだとか。クセで、シテが語る部分がある。地謡がうたっているけれど、床几に腰をおろして、あたかも自分がそこにいるように、「白鷺の群れいる松見れば。源氏の旗をなびかす。多勢かと肝を消す」と言う。要するに白鷺が飛んでいるのをみて、それがあたかも源氏の旗に見えた。それでびっくりして恐怖を感じるというところです。それで立ち上がって、単に首の向きを変えるだけなのですが、そのときにはっと、源氏の旗を感じた。本当に見えたわけではないけれど、そのときに如実に、リアルに感じた。そのときの経験が、ある種の自分の核になった。

だから、いまやっている舞台のなかにも、そのときの気分のようなものはある。先ほど言ったように、きっかけを感じなくとも、一つの空間に、ふっと自分が居るという感覚。それは似たようなこととして、平田オリザの舞台における秒数を、拍数におきかえることができるかもしれない。若い時に能を学んだことと、いまやっていることが、どこか自分のなかで結びついているということはある。
高橋 :平田オリザの演劇を演じることが、かつて学生時代に大学で学んだ能の授業や実習公演と結びついている。その数十年の時間の長さは学び続けることとやり続けることのつながりでもありますし、平田さんの緻密な演劇が、形式として能の様式と志賀廣太郎という俳優の身体を通じて結びつくという、非常に面白い話でした。
それでは最後に学生たちからの質問をうけたいと思います。

質問1:ドイツに行かれた、ほかの理由はなんだったのですか。

志賀 :ドイツに行ったのは、意外かもしれないですが、新体操がきっかけなんですよ。桐朋の中高を卒業した方で、ドイツに留学して新体操を学んだ。それで戻ってきて、演劇科で教えていた。信じられないかもしれないですが、当時わたしは体操の助手もしていたから、基本リズムのとりかたとか動きに興味があった。それもひとつのきっかけになった。先ほど言ったように舞台を見たり、日常の人々の歩き方や座り方であったり、もちろんそれは人によっても違うものですが、基本的な動作を見てみたかった。

あと、これは芝居とは関係ないですが、当時まだ西ドイツと東ドイツに分かれていて、ボンという西ドイツの首都に行った。ボンはベートヴェンが生まれた都市で、ベートヴェン・ハウスがあった。そこを探していたら、道を歩いていた小柄なおじさんがいて、どうやっていけばいいかを聞いた。そのおじさんは、わたしの顔を見て、その表情が「やあ、遠いとこからよく来た、よく来たね」という感じなんですね。それで、ぼくの肩にポンっと手を置いて、この道をこうやって、ああやって行けばいい。楽しんでと言われた。なんだか、「やられたー」という感じでした。ドイツ語にはゲストに対して、おもてなしという意味の、Gastfreundschaftという言葉がありますが、その普通のおじさんの顔がなかなか忘れられない。言葉じゃなくて態度として、それが人をもてなすということなんだと。

それは、自分が学んでいることのエピソードとしてあった。それがある種のリアルの日常である、と。もちろん今ほどではないですが、差別はあった。ただ、人を何人であれ関係なく迎え入れるような姿勢。それは貴重な経験でした。

質問2:40代で青年団の舞台に出る前、ドイツから帰られてからは、ほかにどのような活動をしていましたか。

志賀 :ドイツから帰ってきたときが30歳ちょっと前ぐらいでした。そして、演劇科13期生が一年生のときから桐朋学園で教えはじめました。それからは教える方が主でした。舞台はほんとうに数えるほどでした。あと演出もやり始めていた。それで40歳ぐらいになるころには、なにか違うなと思いはじめた。当時、小劇場の舞台はたくさん観ていたけれど、自分がそこでやるとは思ってもみなかった。もう10年若かったら花組芝居に入ったのに、とかはあった(笑)。

当時、「ブレヒト研究会」という千田是也先生のゼミの延長のような会で『三文オペラ』をやった。演出は岩淵達治先生で、東京ドイツ文化センターで上演した。それをやった後で、このまま教え続けるだけでいいのかと思い始めた。同じことの繰り返しのようになって、舞台をたくさん観てはいるけど、俳優でない私になんの蓄積があるのか、と。教えるというのは、そういった舞台をやる場があって、その上で若い学生たちとの交流からなにか出てくるものが必要ではないか。単に教えているだけでいいのかと考え始めちゃった。だから、いっそもう演劇から足を洗おうかと思っていた。そのときにオリザの舞台に出会った。あのとき出会ってなければ、演劇自体をやっていなかったかもしれない。
高橋 :それではこれで終わりたいと思います。今日はお忙しいなか、ありがとうございました。


このインタビューは、2019年4月3日に桐朋学園芸術短期大学の学生を聴衆として、志賀廣太郎先生に高橋宏幸がインタビュアーとなって、お話を伺ったものです。その数日後に志賀先生は倒れられました。学生や卒業生がお見舞いに訪れ、リハビリを行なっていると伺っていたこともあり、復帰を心待ちにしておりましたが、それは叶わぬこととなってしまいました。
このインタビューも、志賀先生がご回復なされたらご校正を頂こうと考えておりました。しかし、それも果たすことができませんでした。そのため、高橋宏幸が校正の責任を負い、能に言及した箇所などは小田幸子氏のご協力を得て、インタビューを文字化したものです。もちろん、校正の責任は高橋に帰すものです。そして、ご遺族の許可を得て、ここに掲載いたします。

長年、志賀廣太郎先生の桐朋学園芸術短期大学演劇専攻で行なっていただいた教育、かぎりない情熱と優しさに心より感謝申し上げます。
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